極楽寺歴史
筑前宇美の神々
福岡県糟屋郡宇美町は、八幡大神こと応神天皇が生まれた地。背後には、かつて山伏が荒行をした
山々が連なる。実はこの山の一角・障子岳という山に、八幡宮創建騒動の話が眠っていた。
全国4万の八幡宮総本山は、大分県の宇佐八幡宮。ここに859年、奈良大安寺の高僧 ・行教が、清和天皇の使者としてやってきた。
そこで「筑前(福岡)宇美に我をまつれ」という八幡大神のお告げがおりる。行教はお告げに従い、筑前宇美にやってきたが、宇美にはすでに200年も前から宇美八幡宮で「八幡大神」が丁寧にまつられていた。当時の感覚では、同じ地に同じ神をまつる八幡宮を建てるわけにはいかない。
困った行教は考えた末に「大安寺」と「極楽寺」の二寺を建てる。これらは寺という形をとってはいるが、実質的には「大安寺」に宇佐八幡宮と同じく「八幡大神」ら八幡三座神(応神天皇・比売大神・神宮皇后)をまつり「極楽寺」には八幡三座神の本来の姿とされる、阿弥陀如来・薬師如来・観音菩薩・弥勒菩薩などをまつったようだ。
そして翌年、行教は京都の南に位置する男山に「石清水八幡宮」を建て、ようやく本来の八幡宮という形で八幡大神ら八幡三座神をまつる目的を果たした、という話だ。
しかしその「大安寺」と「極楽寺」も今はない。「大安寺」は山のどこにあったのかさえ分かっていない。「極楽寺」はどうにかおよその場所が分かり、「極楽寺址」という小さな史跡として存在する。
この「極楽寺址」がある集落に、今はなき「極楽寺」の再興をめざす人物が栗山晃信師である。
世間からすっかり忘れ去られ、落ち葉に埋もれ、がけ崩れに朽ちかけた信仰の足跡。栗山師は落ち葉をはき、拾い集めた石で土留めを築き、自力で周辺を整備した。
栗山師に連れられ「極楽寺址」に向かう。境内の木々や石仏には、あまたの神霊が宿っているらしい。ひときわ高い段に目をやって驚いた。そこに"神仏混合"の象徴的な姿があったのだ。神をまつる社と、仏をまつる祠が、同じ高さ、同じ大きさで左右に並んでいる。かつての「大安寺」と「極楽寺」のように、神と仏が対等に仲良く並んでいるのだ。
(「信仰の里に見る神と仏がとけあう姿」抜粋
by 森熊太郎/フリーライター)
貝原益軒の『筑前国続風土記』の中で「極楽寺は宇瀰村の技邑障子岳と云所にあり。今は民屋となれり」と書いているように、江戸中期ごろにはすでに極楽寺の址地は民家の下になっていたようである。……中略……ところが不思議なことにそれらの家々では変異がつづいてすぐ廃家となり、そのあと再び人が住むと、再び悪いことがつづいて、また廃家になるといったことで、いつのころからか、民家は途絶えてしまい、村の人々は寺址だから、きっと仏の祟りだろう、と噂をするようになった。それからは、長い間畠になってしまった、とはなしてくれた。
(抜粋 筑前宇美の神々 天本孝志著)
追記
歴史の中の極楽寺を語る際、見逃すことの出来ないことがある。
1274年10月蒙古の大軍によって九州博多湾を急襲されたときは、一時的に箱崎宮のご神体を極楽寺に遷座したと言う伝承の地でもあると言うことだ。
時代の流れの中、栗山住職の手で再度開眼された極楽寺は、現代の人々にどのような形で仏の力を伝える使命を託されているのか注目して頂きたい。